2023.06.23
ピラティスについてピラティス エルダー Pilates Elder(長老たち)②
イヴ・ジェントリー(Eve Gentry, 1909-1994)
イヴは1909年8月20日にカリフォルニア州サンバーナーディーノで誕生しました。結婚して「イヴ・ジェントリー」と名乗るようになるまでは、「ヘンリエッタ・グリーンフッド」という名で活躍していました。
8歳くらいからバレエ、フォークダンス、社交ダンスをするようになり、1928年にサンフランシスコに移ってからモダンダンスを始めました。
イヴはアメリカ人のモダンダンサー、マーサ・グラハムのオーディションで奨学金を勝ち取り、1936年にニューヨークに行きました。
1936年から1942年まで、ニューヨークのハンヤ・ホルム・カンパニーでアメリカにおけるモダンダンスのビッグ4の一人、ハンヤ・ホルムとともにダンサーとして活動しました。
彼女の最も有名なダンス作品は「Tenant of the Street」ですが、これはこの時期に作られたものです。
1940年、イヴは共同でThe Dance Notation Bureauを設立しました。これは、ダンスの振り付けを保存し、その芸術性を向上させることを目的とした非営利組織でした。彼女はアメリカでラバン記譜法(ダンスの身体の動きを分析し、記録するための手法)を教えた最初のダンサーでした。
その後、1944年から1968年まで、自身が設立した会社、イヴ・ジェントリー・ダンサーズでダンスと振り付けを行いました。また、舞台芸術高校やニューヨーク大学の職員でもありました。
ダンサーとして精力的に活躍する一方、背中と膝の慢性的な痛みが続いていたことで、ジョセフ・ピラティス(ジョー)に師事するようになりました。1938年から1968年にはピラティススタジオで働き、ジョーとは彼の晩年まで、長年ともに働きました。
イヴは乳がんを患い、1955年に根治的乳房切除術を受けました。その手術であまりにも多くの筋肉が取り除かれたため、腕を上げることすらできなくなったそうです。ダンサーとして致命的な状態に陥ってしまったイヴは、ジョーのピラティスを受けました。すると、1年でダンスに復帰するまでに回復し、その後のキャリアを続けることができたのです。その経験はイヴに大きな影響を与えたと言われています。
複数の医師に助言され、ジョーがイヴにピラティスの高度なエクササイズを行っているところを録画し、ピラティスのリハビリ効果について医療機関に主張しました。しかし医療機関の人々は彼らを信用せず、嘘をついていると非難したそうです。そこでイヴが上半身裸になって再び録画し、真実であることを実証したという逸話が残っています。
ジョーが亡くなり、1968年にイヴはニューメキシコ州サンタフェに住まいを移しました。その地でダンススタジオとピラティススタジオを設立し、ジョーから受け継いだピラティスの機器を使用してスタジオを運営しました。
イヴはサンタフェのオペラでも働き、ロシアの作曲家、ストラヴィンスキーによる名曲「ラ・ロシニョール」の振り付けとダンスを行いました。63歳のときには、メキシコ出身の舞踊家、ホセ・リモンの振り付けによるオペラ、「イェルマ」を世界初演で踊りました。
50年以上のキャリアを通じて、イヴは数え切れないほどの舞台、映画、テレビ番組などで、ダンサー、教師、コーチ、振付師として活躍しました。
1979年にベニントンカレッジは彼女に「モダンダンスのパイオニア」賞を授与し、1989年にはニューメキシコ州から「サンタフェの生きた宝」に選ばれました。
1991年にはピラティスメソッドを広めるため、The Institute for Pilates Methodを共同で設立しました。
イヴは1994年6月17日に84歳で亡くなりました。彼女が生涯でピラティスメソッドを教える訓練を行ったのは3人だけでしたが、ピラティスメソッドの継承と発展への貢献は注目に値するものです。
関連記事
2023.06.23