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ピラティス エルダー Pilates Elder(長老たち)③

ロン・フレッチャー(Ron Fletcher, 1921-2011)

1921年5月29日、ミズーリ州のエデンズビルに生まれました。ダンスに出会う前は、ニューヨークのサックスフィフスアベニューで宣伝の仕事をしていました。

1944年、マーサ・グラハム・ダンスカンパニーのダンスコンサートを見て衝撃を受けたロンは、熱心に自身を売り込んでマーサとの面談を取り付け、そこで訓練を受けることを認められました。劇場での3週間の下積み後、マーサから指導を受け、ダンサーとしてのキャリアが始まりました。

 

しかし、プロダンサーとしてはダンスを始めるのが遅めだったロンは、じっくり時間をかけて基礎クラスから身体を作っていくという選択肢はありませんでした。加えて、グラハム法は身体に加わる負荷が非常に強く、彼は膝に問題を抱えるようになりました。手術も勧められましたが、手術を受けるとそこで自身のキャリアが潰えるリスクがありました。

そこで、1948年、慢性的な膝の問題を解消するために、ダンサー仲間のアレグラ・ケントからジョセフ・ピラティス(ジョー)のスタジオを紹介され、ジョーとクララからピラティスを学ぶようになりました。1948年のその出会いからジョーの死後1年まで、振付師としての仕事をしながらジョーのスタジオに通いました。

 

1950年台にはニューヨーク、ラスベガス、パリなどでロンは振付師として人気を博しました。劇場、テレビ、ナイトクラブ、映画、アイス・カペード(1940年から50年間ほど繁栄したアイススケートのショー)など、多岐にわたるステージで振付を担い、エンターテインメント界で一躍有名になりました。

 

その一方で、ロンはアルコール依存症で、酒を飲むとよく意識を失ったりバーを壊したりし、仕事もリハーサルやオープニングに現れないことがあったそうです。ついには振付師としての仕事を解雇されるまでになりました。職を失い、アルコール依存症患者のためのプログラムに参加して以来、アルコール依存症を克服することに成功しました。

 

1972年5月1日、カルフォルニア州にピラティススタジオ、「The Ron Fletcher Studio for Body Contrology」をオープンさせました。

ジョーの死後、1970年代後半にかけてニューヨークのジョーのスタジオは衰退していましたが、ロンの高い知名度と彼のハリウッドの著名なクライアントたちのおかけでピラティスの名前を存続させることに成功しました。

1978年には自身の著書「Every Body is Beautiful」を出版しました。ピラティスの呼吸に焦点を当て、今では一般的となっている立位でのピラティスを初めて紹介しました。また、タオルを使ったFletcher Towelworkとバレエ練習用の手すりを使ったFlecher Barreworkというメソッドを開発しました。

 

1988年からは生涯のパートナーであるジョン・バトルズとテキサス州の牧場へ住居を移し、2003年には次世代のピラティス指導者の育成カリキュラム、「ロン・フレッチャー・プログラム・オブ・スタディ」を確立しました。

2007年にはピラティスのスクールである「フレッチャー・ピラティス・インターナショナル」を設立して、世界中でロンのピラティスメソッドが教えられるようになりました。

20年もの長きに渡りジョーとクララに直接師事し、彼らの意志を受け継いだロンによるピラティスへの独自のアプローチは、ピラティスの発展と次世代への継承に大きく寄与しました。

 

 

 

 

 

 

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