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ピラティス エルダー Pilates Elder(長老たち)⑥

ロリータ・サン・ミゲル(Lolita San Miguel, 1934-)

1934年10月9日、ニューヨーク市で生まれました。プエルトリコ出身の彼女の父ペドロと母メアリーはお互いに2度目の結婚で二人とも連れ子がおり、二人を生みの親とする子どもはロリータだけでした。3歳になると父親の仕事の都合でプエルトリコに移住。7歳からダンスを始めると夢中になりました。
11歳のとき、ロリータがスクール・オブ・アメリカン・バレエの夏期コースに参加するため一家でニューヨークに行きました。ところが、ニューヨークに到着して4日後、父ペドロが心臓発作で急死しました。父の死は彼女の人生で初めての悲劇的な喪失でした。しかしこの絶望的な経験とそれにより強いられた生活の変化があってこそ生きてこられたと言っています。
 
彼女にとって踊ることは情熱そのものでしたが、学業もまた、人生において重要な要素のひとつでした。それは亡き父の悲願でもあり、ロリータに十分な教育を受けさせて自立した女性にさせることが、父ペドロの最も重要な課題でした。労働者のリーダーであり労働組合の組織委員であったペドロは、女性が労働の中で直面するあらゆる不平等や理不尽を目の当たりにしていたので、自分の娘はそうならないよう願ったのです。
ロリータは規律正しく、従順で優秀な成績を収めていました。刑事法に興味を持ち、弁護士になることも考えていました。進路を選択する時期になり、ロリータは、このまま保障のない不安定なダンスを選ぶか、高度な教育を受けるべきか、頭を悩ませました。母に相談すると、自立した女性になるため、自分で決断するように言われました。そうして悩んだ末、ダンスのキャリアを追求することに決めたのです。
 
 卒業後、スラヴェンスカ・フランクリン・バレエ団に入団し、バスで48週間アメリカをツアーし、主に一夜限りの公演を行いました。若いダンサーにとって素晴らしい経験を積むことができました。
1954年メトロポリタンバレエ歌劇場バレエ団に入団し、ソリストになりました。オーケストラのコンサートマスターのレイと結婚し、ルドルフ・リビング時代の偉大なスターたちと共演できるという大変な特権に恵まれました。マリア・カラス、レナータ・テバルディ、フランコ・コレッリ、ジョーン・サザーランド、ビルギット・ニルソンと、素晴らしいスター達とステージを共演しました。
 
1958年、メトロポリタン歌劇場バレエ団在籍中に膝に怪我を負い、レノックスヒル病院の主任整形外科医であるヘンリー・ジョーダン医師の診察を受けました。手術の必要性はないとのことでしたが、膝関節を保護するために大腿四頭筋を強くした方が良いと言われ、キャロラ・トリアーのピラティススタジオにいくことを勧められました。
 
キャロラ・トリアーはジョセフ・ピラティスのトレーニングを受けていた一人です。マンハッタンにある彼女のピラティススタジオには、フィットネスやリハビリを必要とするダンサーやアスリートが頻繁に訪れていました。カロラキャロラにはロマーノ・クリザノフスカとキャシー・スタンフォード・グラントの二人がアシスタントとしてついていました。
ロリータは、キャロラのスタジオに7年以上通い、一連のエクササイズを毎日練習しました。バレエの授業やリハーサルの前にウォーミングアップとしてそれらを行いました。
1965年、ニューヨーク大学リハビリテーション学部が提供する、ダンサーのキャリア転換のためのピラティス指導者養成プログラムに参加して、キャロラの下で実習を開始しました。ロリータはキャロラがこのプログラムで認定した唯一の人物です。ロリータは、キャロラのアシスタントであるキャシーがいる時間帯に参加することを好みました。ロリータはキャシーのことを素晴らしいティーチャーと評価し、彼女から多くのことを学びました。
 
しかしロリータはキャシーを尊敬する一方、キャロラの下では働きたくないと考えました。キャシーに相談すると、ジョーに会いに行こうと提案されました。ロリータはジョーが既に亡くなっていると思っていましたが、実は数ブロック離れた場所にスタジオを持っていることを、その時知りました。
ロリータとキャシーはジョーの住居を訪ね、ピラティス指導者養成プログラムを二人のために担当してもらえるか尋ねました。ジョーはしばらく逡巡したのち、了承しました。こうして1966年、ロリータとキャシーはジョーのトレーニングを受け始めました。
ロリータの回顧録によると、昼食後のジョーは機嫌よくリラックスしており居心地の良い時間だったそうです。ジョーは80歳代で、黒いショートパンツと白いタートルネックを着たドイツ訛りの強い白髪の紳士で、クララは小柄で優しく、いつも看護師の服を着ていたそうです。
ロリータはジョーの第一印象を「エネルギーの津波」と表現しています。ジョーとクララと過ごした日々は優しく穏やかな時間でしたが、苦しい時期もありました。1966年、ロリータの息子カルロス・ジョージは、2歳になる直前に病気になり、ペニシリンを投与したところ、アナフィラキシー反応でこの世を去りました。突然の喪失で人生のどん底の日々でしたが、この経験からロリータは、どんな困難があっても生き抜くという精神の礎を築きました。息子の死を悲しみ、涙を浮かべてジョーのスタジオに戻ると、ジョーとクララは無言で長い抱擁をしてくれました。
 
困難があってもロリータは前に進み続け、1967年にジョーからプログラムの認定を受けました。同じ年、ジョーは84歳の誕生日の2ヶ月前に亡くなりました。
ロリータと夫レイは新しいアパートに引っ越しました。彼女は自分の髪を永久に短く切りました。彼女は長い髪をダンスのキャリアの一部だと考えており、髪を短く切るという行為はすなわち、人生の転換を示唆するものでした。ロリータはダンスとピラティスを教えることに専念しました。
1973年、ロリータはレイと離婚し、1977年にロリータは人生の新しいパートナーであるハイラムとともにプエルトリコに戻り、1978年に再婚しました。プエルトリコで彼女はバレエの会社とピラティススタジオを設立しました。当初は6ヶ月の滞在の予定でしたが、結局28年間も滞在しました。
 
ケビン・ボーエン(Kevin Bowen)とコリン・グレン・ウィルソン(Colleen Glenn-Wilson)とともにピラティスコミュニティのカンファレンスに招かれ、フロリダ州マイアミに行きました。そこでロリータは、キャシー・グラント、ロン・フレッチャー、メアリー・ボーエンらとともに、「エルダー(長老)」と呼称され、して紹介されました。
生涯学習者であり現代の運動科学を理解することの利点を信じているロリータは、Polestar Education(リハビリテーション医学をベースとしたピラティス指導者の養成、カンファレンス開催、資格認定等を行うピラティスの代表的な組織)の包括的な資格を取得しました。
 
2009年、ロリータはピラティスマスターメンタープログラムを開始しました。オーストリア、スイス、イタリア、フィンランド、オランダ、ドイツからのティーチャーが参加する、ヨーロッパでの最初のマスターメンタープログラムでした。そこでクラウディア・ホルトマンズの要請を受けいれ、ドイツでグループの立ち上げを行いました。
ロリータは継続的に探究し、学び、成長し、進化することが大切だと信じています。そんな彼女のことを多くの人が愛し尊敬しています。2020年、コロナウィルスのパンデミックにより移動が制限されるなかでも彼女は自身のモットーに忠実であり続け、オンラインを使い始めました。その時すでに86歳でしたが、彼女は自分自身に挑戦し、ピラティスへの愛を広める方法を新たに見つけたのです。

 

 

 

 

 

 

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